公共事業の難しさ

年末に,普天間と辺野古に行ってきた。関心を持ち続けていたいという思いからだが,公共事業の難しさは今回の入試改革にも通じるものがあると感じた。特に時間のかかる事業は,自らが結果責任を負わないので,政治家(鳩山さんも含む)も役人も任期中の手柄や自己実現・承認を優先して唐突に動いてしまうのだろう。

辺野古はもっと難しいだろうが,入試改革についても,ここまで来てしまった事業を止めることから利益を得る政治家や役人はいないだろうから,彼らを動かすことはきわめて難しい。

一方,今回の件で,(教育改善のための大学入試改革なので,当事者感が薄れがちではあるが,それでも),万一誤った入学者選抜をすると,その責任を負うのは各大学なので,国立大学協会がギリギリのところで慎重さを取り戻すことは,まだ期待できる。

昨年6月14日付の意見書(http://www.janu.jp/news/files/20170614-wnew-teigen.pdf)や11月10日の総会後に発表された会長談話(http://www.janu.jp/news/files/20171110-wnew-nyushi2.pdf)を読めば,国大協が問題の在り処を明確に把握していることは明らかである。「意見書」で文科省に求めた情報提供がないにもかかわらず,「認定試験を一般選抜 の全受験生に課す」と総会で決定したのは,運営費交付金等に絡めて文科省に締めつけられることを恐れてのことであろう。しかし,文科省に対する情報提供の要請は「会長談話(以下抜粋)」に引き継がれている。

「さらなる詳細が示されるべき課題とは、英語の認定試験については、認定の基準及びその方法、学習指導要領との整合性、受験機会の公平性担保、受験生の経済的負担軽減等の具体的方法、異なる認定試験の結果を公平に評価するための対照の方法などであり… 」

「残念ながら6月に指摘した諸課題については未だ十分な詳細が示されているとは言えない。

しかしながら、改革の実施までに残された期間は短く、各大学及び受験生の準備や心構えを考慮すると、基本方針については早急に示す必要があることから、このたび策定・公表したものである。

文部科学省においては、上述の国立大学協会が指摘した諸課題について早急に検討を行い、可及的速やかに詳細を明らかにするよう要請するものである。

なお、国立大学協会としては、その内容を精査した上で、英語の認定試験及び 記述式試験の具体的な活用方法について、本年度中を目途に、国立大学共通のガイドラインを作成することを予定している。」

ここで,国大協が妥協すれば,結局は,国立競技場の時のように,おかしなことが起こり始めてからしか,抜本的な見直しや修正がなされないことになる。2020年度を前に,そういうことが起こらないようにするための検証がほとんど行われていないだけに,国大協の「要請」が再び蔑ろにされることのないよう,文科省にも国大協自体にも望みたい。

「大学入試英語成績提供システム」への参加申込が7団体24種のテストからあったそうだが,その複雑さに制度の危うさが隠れてしまう感がある。

http://www.dnc.ac.jp/albums/abm.php?f=abm00011313.pdf&n=参考資料2_「大学入試英語成績提供システム」の活用イメージ.pdf

もちろん,それを意図して作られたわけではないだろうが,テストの運営が混乱・破綻すれば業者の落ち度になり,選別方法に起因する問題は各大学のせいになるようにできている。妥当性・信頼性・機密性などテストの根幹にかかわる問題に加えて,個人情報の扱いも危ういし,システム参加要件の審査を申請団体の自己申告に基いて行うなんて茶番としか言えない。

ここまで来たら,どんな馬鹿げたことも起こりうることを前提に対応を考えるしかない。年間の延べ受験者数さえ予想できない状況の中,不必要な時限を切って,必要な検証を怠ったまま,民間試験導入事業がデマゴーグの口車に乗せられて,前へ前へと推し進められている。「少々問題があっても何もしないよりマシ」「英語教育改革の最後の砦」などという言葉を,日頃は信頼を寄せる同業者から聞くようになると,これは入試改革のインパール作戦かと問いたくなる。

 

 

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「入試へのスピーキングテスト導入」賛成派としての反対

外国語教育の目的は多様だが,「使えるようになること」だけについて言うなら,対象言語を用いて意味をやり取りすること(言語を本来の用途で使うこと)を通してしか,その能力を育むことはできない。習得を推し進めるのは主にインプット(読んだり,聴いたりすること)だが,アウトプットも重要な役割を果たす。言語形式(文法や語彙等)を明示的に教えることにもそれなり効果はあるが,十分なインプット・アウトプットがあることが前提となる。

このような第2言語習得のメカニズムの大筋(あくまでも大筋ではあるが)は,1960年代後半から今日に至るまでの第2言語習得研究によってほぼ証明されたと言ってよい。これらの研究は,主に口頭のコミュニケーション能力の習得を対象とするものだが,読み書きの能力が口頭のコミュニケーション能力と根本的に異なるメカニズムで習得されるというような証拠はない。

今でも日本では,「読み書きさえやっておけば,必要になった時に話せるようになる」などと,逸話めいた根拠に基づくガラパゴス的な主張を耳にすることがあるが,日本語話者だけに独特の習得メカニズムがあるとは考えられない。

また,明示的に習うことから得た言語形式に関する知識の一部を読み書きに使えるとしても,その知識がそうやすやすと即時的な口頭のコミュニケーションに使えるように自動化するなら,英語教員の英語を使う力が足りないというような問題は起きないはずである。

その他にも,「自分は明示的な文法説明(理解)がないと外国語を学ぶ気にならない」等,(子供はもちろん,大人にも逆の傾向の人はいるので)individual differencesとして扱われるべき要因を,普遍的な習得メカニズムと混同して論じる向きもある。

さらに,日本では英語を使う機会が少ないことや,授業時間が限られていることなどを根拠に「読み書き重視」を主張する研究者もいるが,どのような学習環境であろうと,もし習得(使えるようになること)を目標とするのなら,動かしがたい習得メカニズムを前提に,そのプロセスを促していくしかない。

言いかえれば,外国語の教育や教師の役割は,狭義の教える(知識を授ける)ことではなく,習得メカニズムを促す環境を整えることである。これにはマクロ・ミクロレベルでいろいろな方法があるが,根本的には,従来の「教える」「わからせる」といった発想をやめて,「使う」(特に「読んで」「聞く」)ことや「育む」ことに重点をシフトする必要がある。

最もミクロレベルの例を挙げるとすれば:

(1) Tom (go) to Japan last year to see his uncle.
[“go”を適切な形に]

などと,文法や語彙を陳列するために言語を用いるのをやめて,

(2) Tom went to Japan last year to see his uncle.
[When did Tom go to Japan? What did he do there?]

と問えば,意味伝達のために言語を使うことになる。

さらに,
(3) Have you been abroad? When? What did you do there?

と学習者自身について問えば,より深い意味へのengagementが生まれるかもしれない。

このように,文法(上の場合は,現在完了や過去形など)や語彙を意味伝達のために用いることが最も重要であり,その過程で和訳するか否か,辞書を用いるか否か,英語で教えるか否かなどは,副次的な問題にすぎない。

「英語の授業は英語で」という方針は,同様の指導理念に基づくものと思われるが,あまりにも突飛で教育現場の現実を踏まえていない。そのため,教室では,(2)(3)のような言語運用が起こらない(習得に資する認知プロセスが生じない)「口頭のコミュニケーション活動」に貴重な授業時間が浪費されるようになってしまった。その一方で,根本的には,上記(1)的な言語へのアプローチに取り憑かれた状況はまったく変わっていない。

このようなどっちつがずの状況が,上述のような上滑りの不毛な論争を呼び起こす結果にもなった。

「それほどスピーキングが重要なら,入試に採用されるか否かにかかわらず教えらているはずだが,なぜそうではないのか?」と問われたことがある。そもそも,スピーキング(広く言えば,言語を使う能力)は,外から教えられるものではない。さらに,今の日本の教育現場には,(重要とわかっていても)使う能力を育む力が備わってはいない。

すなわち,「大学入試にスピーキングがないから,スピーキング能力が育たない」などというのは,100%の濡れ衣である。逆に言えば,入試にスピーキングを導入したところで,教育現場における言語へのアプローチが根本的に変わらない限り,生徒たちの英語運用能力が画期的に伸びることは期待できない。

そういう意味で,ここ10年あまりの間に,小池生夫先生や吉田研作先生が文科省に入り込んで,勢力的に取り組まれても達成できなかったことを,もしかしたら達成できるかもしれない最後の切り札が「入試へのスピーキングテスト導入」ということなのだろう。

つまり,今回の入試改革の目的は,公正・公平に入学者選抜を行うことではなく,入試を変えることで教育を変えることである。教育の現場で育むことのできない能力を入試で問うことによって教育を変えるという本末転倒の荒業(禁じ手)が今まさに使われようとしているのだ。

「民間試験のスコア対照表が愚の極みである」とか,「CEFRのレベル分けでは入学者選抜ができない」といったテストの根幹にかかわる指摘にも,文科省を含む導入推進派がびくともしないのはそのせいであろう。

ここに来て,推進派に慎重さを促すことができるのは,テストの運営過程できわめて大きな破綻が起こる可能性があるという事実を突きつけることだけかもしれない。50万人以上の受験者のうちの100人程度がリスニングの再開テストを受けたことに毎年大騒ぎする(好ましいとは思われない)土壌を利用することになるが,SGU予算や科研費の配分を受けて,実際にスピーキングテストの開発・運営をしてきた者の役割をその面で果たしていきたい。

今回の件,スピーキングテストの入試導入自体に反対する方と,私のようにできる限りの慎重さを求めながらも導入には賛成である者の違いは,やはり,英語教育に関する根本的な考え方の違いによるもののように思われる。

私は,タオルと加計学園で知名度急上昇中の愛媛県今治市の出身だが,しまなみ街道(尾道とつながる高速道)に外国人のサイクリストが増えて,駅前の自転車屋の店主やスーパー銭湯の店員が英語ができなくて困っていると聞く。先日はテレビで,築地のマグロの仲買人がイタリアに売り込みに行ったというニュースを見たが,日本側の通訳がイタリア人の問屋と英語で交渉していた。

上述のような意味のやり取りを重視した指導法の下で高校まで英語を習っても,そういう人たちがあまり困らないようになる程度にしか成果は望めないかもしれない。しかし,もし日本の学習環境の限界なら,それに甘んじるしかないし,むしろ,そういう能力の育成こそが,公教育が担うべき役割であろう。極言するなら,日本経済が破綻して労働者として海外に渡る時にも,戦争が起こって難民として国外に逃れる際にも,ものを言うのは英語による基本的なコミュニケーション能力である。そういう力こそ公教育が保証すべきものであろう。

最近は高卒の社員が海外の工場等に派遣されるケースも増えてきたが,たとえば,高等教育に必要な読み書きの力や「グローバル人材に求められる発信力」といったローカルなコンテクストで必要とされる能力は,このような基本の上に積み上げられるべきものである。

ここ数年,勤務大学や地域の高校で実際にスピーキングテストを開発・運営してきたが,テストにそれなりの威力があることは否定できない。生徒・学生の英語運用能力が伸びてきたことを数値で示すこともできる。また,教員や生徒・学生が少しずつ変わってきているという手応えもある。しかし,だからといって,公正性や公平性を欠く入試がまかり通ってよいはずはない。建設的な提案をしていきたい。

 

 

民間テスト利用のオルタナティブ

京都工芸繊維大学では,SGU予算等の支援を受けて,コンピュータ方式の英語スピーキングテストを開発し,2014年度より学内で定期的に実施している。これは,大学および大学院入試への英語スピーキングテスト導入の実現可能性の検証も兼ねた試みである。

私は,その実績に基づいて,「共通テスト(英語)」のスピーキングとライティングについては,以下のような解決策が実現可能な中で最善ではないかと考えている。

(a) 大学入試センターがテストスペック(テストの仕様)策定と,可能なら作問までを担当し,テストの運営は実績のあるテスト業者に委託する。

(b) もし予算等の面で問題があるなら,既に多くの大学が個別試験で課しているライティングを後回しにして(個別試験へのさらなる導入を推し進めながら),まずはスピーキングテストを(a)のような形で導入し,状況を見ながら,ライティングを含む他の3技能のテストを同様の形で実施することを検討する。

信頼性,安定性,機密性の担保,費用対効果等の点で,最も運営が難しいのはスピーキングテストである。ライティングテストにはコンピュータの設定等の面で特有の難しさはあるが,スピーキングテストほどの手間や費用はかからない。

上記(a)(b)のような折衷的・段階的な方法をとれば,大学入試を民間テストに丸投げしなくても,4技能の測定は可能である。コスト面でも,民間テストより受験料を抑えられる可能性は十分にある。「民間テストありき」の発想をやめて,関連分野の研究者やテストの専門家の知恵を集めれば,さらに良い方法が見つかるかもしれない。

先日,国立大学協会が一般選抜の受験生に一律に,従来のマークシート式テストと民間テストの両方を課す方針を固めたことが報道された。しかし,まだ引き返すことができるところにいるはずだ。各国立大学のトップに立つ研究者の集まりである。科学的正当性を踏まえ,社会への影響に配慮したwell-informedな判断をしていただきたい。

「共通テスト」によって合理的な入学者選抜をするためには,以下の2点が必要不可欠である。その両方を手放すのでは,英語4技能の測定と引き換えに犠牲にするものが大きすぎる。

  • テストの一本化
  • 国(文科省,大学入試センター等)の管理下での実施

「テストの一本化」が不可欠であることは,10/24/2017付の投稿で述べた。異なる複数のテストの成績を対応づけて,受験者の能力を順位づけたり,特定のスコアを出願資格としたりすることには科学的正当性が乏しい。テストの研究者であれば,このことに異論を唱える人はいないだろう。

「腕立て伏せができる回数」「50m走の速さ」「立ち幅跳びができる長さ」は,それぞれに「体力」の一端を表し,それなりの相関もあるだろう。だからといって,これらの指標を対応づけて,そのうちの一つのテストしか受けていない人の「体力」を順位づけることはできない。

足切り法,加点法のどちらを用いるにしても,合理的な順位づけをするためには,テストで何を測るか(たとえば,「体力」,「英語運用能力」といった概念)を明確に定義し,統一する必要がある。そのためには,英語教育やテストの研究者,現場の教員などが参画して,科学的とされる方法で単一のテストを開発することが必要不可欠である。

文科省に作られた「英語の資格・検定試験とCEFRとの対応関係に関する作業部会」は本年9月に活動を始めたばかりのようだが,これからこの「対応づけ」の作業に入るのだろうか? そのような試みに科学的正当性が乏しいのは上述のとおりだが,万一,最初の4年間に国立大学を受験する生徒のスコアをより緻密な対応づけのため利用するというような計画があるとすれば(無いと信じたいが),最初の4年間に用いられるスコア対応表は「実験的」なものであり,「もしかしたら誤っているかもしれない」対応関係に基いて入学者選抜が行われることを意味する。

膨大な手間と費用をかけて,科学的根拠の乏しい対応づけを試みるなら,その手間と費用をテストの一本化に向けるべきである。

今後は,「国(文科省,大学入試センター等)の管理下での実施」が不可欠であることを,京都工芸繊維大学でのスピーキングテスト開発・運営の実績に基いて論じていきたい。

民間テストスコア対照表の欠陥(2)

私の勤める京都工芸繊維大学では,毎年度の入学者全員にTOEIC(L&R) のIPテスト(団体受験)を課している。その結果を,テスト業者が発表した情報によるCEFRとの対照表(以下「対照表」)のTOEIC(L&R)に関する情報とつきあわせると以下のような結果が得られる。

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入学者(合格者)に関するデータであることを考慮しても,最低基準点方式を用いて,A2あるいはB1以上を出願資格とすることが,入学者選抜の意味を持たないことは推測できる。たとえば,B1以上を出願資格とした場合,現在入学している者のほとんどが「不合格」となり,A2以上としたのでは,入学者の能力を識別すること自体が難しくなる。つまり,CEFRとの対応づけでは,ここを選抜したいという層の受験者を選抜することができない。

だからといって,A2や B1をより細分化したレベルを設けて,他のテストのスコアと対応させることには,テストの本質にかかわる大きな問題があることは,先回のブログで述べた。

すなわち,この「対照表」に基づくかぎり,各レベル(たとえばA2やB1)の中間あたりを合否基準とするような合理的な入学者選抜はできない。それどころか,CEFRという大まかな指標に基づく成績情報を他のテストの成績と合わせて大学入試に用いるように求めることは,実際に入試選抜に関わる者を当惑させ,新テスト全体の信頼性や実行可能性に疑念を抱かせることにつながりかねない。

民間テストスコア対照表の欠陥(1)

国立大学協会が,2020年度からの4年間,一般選抜の受験生に従来のマークシート式テスト(大学入試センター作成)と民間テストの両方を課す方針を固めたことが報道された。

(日経10/13)
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO22215350T11C17A0MM0000/

受験機会の公平性を担保するために,センターが認定したすべての民間テストを対象とすることを前提として,テスト結果を出願資格の基準として用いるか,点数化してマークシート式テストの得点に加算するかが検討されているそうだ。

いずれに落ち着くにしても,テスト業者が発表した情報に基づくCEFRと各民間テストの対照表(以下「対照表」)が得点利用の基準として無批判に受け入れられていることには驚くしかない。

(英語4技能資格・検定試験懇談会が運営する「4技能試験情報サイト」より)
http://4skills.jp/qualification/comparison_cefr.html

これについて,名古屋大学名誉教授の野口裕之氏はテスト理論研究の見地から,「対照表」が誤って捉えられていることを指摘している。

(日経10/9)
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO21826250T01C17A0CK8000/

ひと言で言えば,異なるテストを用いて正当な順位づけはできないということだ。

たとえば,各教科のテスト得点に基づいて,勉強のできる度合いを下図のようにレベル分けしたとしても,国語の「1728-2400」と社会の「690-959」を同じ能力を表す指標と見なすことはできない。

※レベルと得点は「対照表」のままで,英語テストを科目名に変えたもの

「英語運用能力」というような実体があるわけではない。各テストが測るのは,それぞれが独自に構成した概念である。測定する概念が異なる場合,尺度間のスコア比較は意味を持たない。

国立大学がこぞってこのような誤りを犯すことはないと信じたい。

CEFRの光と影
この問題については,そもそもCEFR自体が完全無欠の指標ではないということを忘れてはならない。欧州の外国語教育専門家の知識と経験を結集したものであることは間違いない。しかし一方では,(1)言語使用・言語能力・言語発達を単純化しすぎている,(2)第2言語発達の現実を反映していない(実証的な根拠が乏しい),(3)下位レベルの識別が不十分である,(4)descriptor(各レベルの説明文)が曖昧であるなど,様々な欠陥が指摘されている。

2001年に発表されてからの15年あまりで,CEFRがこれほど広く用いられるようになったのは,上述のような欠陥を,多様な言語の習熟度や多様なテストの難易度を共通の指標で表せるという便利さ(言い換えれば,教育や商業的なニーズ)が上回ったからであり,CEFRが完璧な指標であるからではない。

そもそも参照枠(Common European Framework of Reference for Languages)として作られたものを「参照」以上の用途に使うとすれば,使う側に問題がある。

Descriptorの解釈は恣意的
以下の例ように,CEFRのdescriptorはきわめて曖昧だ(下線は著者)。各テスト業者がCEFRと自社テストの関連性を検証する際に,これらのdescriptorをまったく同じに解釈したとは考え難い。

– Can understand and use familiar everyday expressions and very basic phrases aimed at the satisfaction of needs of a concrete type. (A1)
– Can understand sentences and frequently used expressions related to areas of most immediate relevance (e.g. very basic personal and family information, shopping, local geography, employment). (A2)
– Can understand the main points of clear standard input on familiar matters regularly encountered in work, school, leisure, etc. (B1)
– Can understand the main ideas of complex text on both concrete and abstract topics, including technical discussions in their field of specialization. (B2)
– Can understand a wide range of demanding, longer clauses, and recognize implicit meaning (C1)

4技能の偏りが考慮されていない
上述のCEFRの欠陥とも関連するが,「対照表」は個々の学習者の4技能がバランスよく発達することを前提としている。しかし,現実には4技能の発達に偏りのある学習者も少なくない。

私の勤める京都工芸繊維大学では,独自に開発したCBTのスピーキングテスト(https://kitspeakee.wordpress.com)を学内で定期実施している。これは,CEFRのA2,B1レベルを対象に問題や評定尺度をデザインしたテストであるが,たとえば初年度(2015年1月)に実施したテストを受けた1年次生551名の81%が,100点満点で50点から69点のスコアゾーンに属していた。スコアデータは正規分布に従っていたが,採点者が受けた印象も,上下に突出した一部を除く回答のほとんどが同様のレベルであるというものであった。一方,毎年ほぼ同じ時期に同じ学生群が受験するTOEIC(リスニングとスピーキング)のIP(団体受験)では,同テスト団体がA2,B1とするレベルのスコア分布はほぼ平坦である。このようなデータを前にすると,4技能の平衡上達を前提とする「対照表」の確からしさに疑いを持たざるを得ない。

能力の偏りは,受けてきた教育に起因する部分が大きい。ならば,2020年度の入試改革当初から,4技能の得点を同等に扱うかどうか(たとえば,スピーキングを他の技能と同等に扱うか)を検討することには大きな意味がある。しかし,民間テストを用いて「対照表」を基準にするとなると,そのような考察や工夫をする余地はない。

関連性の検証方法
CEFRと民間テストとの関連性が,各テスト業者の言うままに信じられ,文科省による検証はまったく行われていない。関連付けには,「自社作成のCan-doリストとの比較(英検)」,「CEFR マニュアルのStandard Settingに基づいて関連付け(GTEC CBT)」,「Can-do アンケートによるCEFRとの比較(TEAP)」Basket法(英検),Modified Angoff法(TOEFL iBT,TOEIC)など,様々な手法を用いたことを各テスト業者が公表している。しかし,これらの方法にどれほどの科学的正当性があり,どれほど緻密かつ正確に検証が行われたかを文科省は確認していない。

このような対応付けは,すでにテスト理論の研究者から様々な方法が提案され,実際のテストで「目安」として使われてきた。しかし,すべての国立大学の入学者選抜の基準となるスコアを返すとすれば,どの民間テストも同じ対応付けの方法を用いることが必要ではないだろうか。

テスト業者の言うなりの情報をつなぎ合わせた「対照表」を基準にして,国立大学の入学者選抜が行われることがあってはならない。

対応付けの難しさ
京都工芸繊維大学では,独自に開発したCBTのスピーキングテストを学内で定期実施している。たとえば,来る12月16日(土)には,1年次生全員(約600名)がこのテストを受けることになっている。学内のコンピュータ演習室の収容人数の関係で,一度に全員が受験することはできない。そのため,毎回,複数のバージョンのテストを用意して,複数の受験機会を設けることで対応している。各受験者はそのうちの一つのバージョンを受けることになるが,それとは別に,全バージョンのテストを受ける「モニター受験者」(アルバイトの2~4年次生約100名)を設定し,問題の難易度や評価の辛さを複数バージョン間で揃えるための手がかりとしている。このようなモニター受験者による「等化」を行うためには,少なくとも正規受験者の1割から2割が必要であるというのが,等化を担当している研究開発メンバーの意見である。

このスピーキングテストの得点は,1年次後期の必修科目「Interactive English B」の成績に10%分だけ加味される。バージョンが異なるとは言え,同じスペックのテストを用い,1科目の成績の10%分になるテストの結果についてでさえ,対応付けにはこれだけの手間をかけている。大学の入学者選抜に複数のテストを用いるなら,さらに慎重な対応付けが必要であろう。

国立大学協会は学術的根拠に基づく判断を!
これは巧妙に仕組まれた罠のようにも思われる。各民間テストや「対照表」に関して,文科省が提供している情報は,すべて,民間テスト業者が発表したものである。一方,それぞれの民間テスト業者は,自社のテストに関する情報しか発表していない。国立大学がこれらの情報をつなぎ合わせた「対照表」を拠り所に入試を実施した結果,きわめて大きな問題を招くことになったとても,文科省もテスト業者も直接の責任を問われることはない。大学には,入試を実施する主体として,また,研究者の集団として,文科省の圧力に屈することなく,「対照表」の本質を見抜いたwell-informedな判断をしていただきたい。

「民間テストありき」

「加計ありき」で進められたと言われる獣医学部新設の手続き。同じことが,英語の大学入試改革でも起こっている。「民間テストありき」でことが進められ,文科省主導で行うべき施策の実効性に関する検討や検証が行われていない。テスト研究や英語教育の専門家から上がる反対意見は無かったかのように捨て置かれ,結論ありきで2020年度に向けた準備が場当たり的でありながら,きわめて強引に推し進められている。

今回の英語入試改革は,センター試験が民間テストに替わるだけのものではない。センター試験は,初等・中等教育を修了した後にしか受けられないテストであり,小・中・高等学校の英語教育への直接的な影響は良い意味でも悪い意味でも,ある程度限定されている。一方,民間テストは受験料さえ払えばいつでも(たとえば,小学生や中学生のうちから)受けられる。この違いが,民間テスト導入後の小・中・高等学校の英語教育にどのような影響を与えるのか,日常の指導や評価がどう変わり,生徒や教員はどう感じ,家庭では何が起こり,受験産業はどう動くのか,このような制度設計上の基本さえ,まったく検討されていない。

「4技能でありさえすれば,どのようなテストをどう導入しようと今よりはマシ」と信じ込まれているようだが,テストの波及効果はそれほど単純なものではない。

外国語でコミュニケーションすることの楽しさや異文化への興味・関心などを度外視して(そういうものに気づかせるための努力を放棄して),小・中・高等学校がGTECや英検などの予備校と化す姿は想像するだけでおぞましい。学習指導要領を告示し,教科書を検定する文科省には,施策導入の前に,そうはならないことを検証をする責任があるはずだ。

大学入試において3技能ではなく,スピーキングも含めた4技能の評価を行うのが望ましいことは言うまでもない。しかし,だからといって,国の英語教育をまるごと民間のテスト業者に差し出すことはない。運営の難しいスピーキングテストだけを国の管理下で民間に委託する(たとえば,大学入試センターがテストスペックの策定や作問を担い,テストの運営は実績のある業者に任せる)とか,第3セクター方式で運営するといったことも考えられる。そうすれば,学習指導要領を踏まえた出題もできるし,外部からは見えないスピーキングテストの特性や受験者の実態を見極めながら,大学の入学者選抜にふさわしい得点算入の仕方を考え出すこともできる。

ここに至るまで,そのような選択肢がいっさい検討されていないことが,今回の英語入試改革が「民間テストありき」で進められていることの証と言える。

私が勤める大学の図書館には,数百万円分の役に立たなくなったTOEICの参考書が山積みされている。2016年に出題形式が変わったために,新形式の問題に対応した参考書を新たに買い揃えることが必要になったのだ。2020年度からは,これと同じことが,小・中・高等学校でも起こるのではないか,この国の英語教育がテスト業者の手のひらで転がされるようになるのではないかと,心配は尽きない。

テスト業者の能力や職業規範を疑うわけではない。しかし,費用対効果を優先せざるをえない団体であるかぎり,彼らのパフォーマンスに日本における英語教育・学習の評価をまるごと託すわけにはいかない。たとえば,自社テストの受験者数を伸ばすために内部で得点調整をすることが許されるような環境での大学入試導入は,大学や受験生にとってはもちろん,テスト業者にとっても望ましいことではない。「せめて査察制度を!」と叫び続ける声も文科省には届かない。

一度,大失敗をしないと分からないのなら,その失敗を見届けてやろうと思い始めていた。しかし,民間テストの利用に消極的であった国立大学協会までもが文科省の圧力に屈して方針を転じたと聞くと,科研費やSGU予算の支援を受けて,5年も前からこの問題に取り組んできた者としての責任を果たさなければと思う。

テストの妥当性や信頼性,テスト運営のセキュリティーやリスクマネジメント,複数のテストの相関,情報の透明性など,「改革」にあたって検討すべきことが検討されていないことを,実践を通して得た具体的なデータを基に訴えていくのが,国のお金でスピーキングテストを開発・運営してきた私たちの役割だろう。暴露記事的にならないように気をつけながら,スピーキングテストの裏側や受験生の実態についての情報を発信していきたい。

11月の国立大学協会の総会で,2020年度からすべての国立大学で,大学入試センターが作成するマークシート式のテストと,民間テストの両方を受験生に課すことが正式決定するそうだ。

弱小だけど,お上にものの言いにくい世相だけれど,やせがまんして,もうちょっと頑張ろう!

危機感を共有する皆さん,そろそろ結集しませんか。

大学入試への英語スピーキングテスト導入は,教育の改善と併行して段階的に!

外国語のスピーキング能力は使うことによってしか育ちません。「使う」とは,言語の本来の目的である「意味」「メッセージ」をやりとりすることです。教室内でも同じで,文法指導など「教える」ことの効果は限定的です。

多くの高校の先生方が英検準1級を目指している現状で,TOEFLやIELTSで高得点をとれる生徒を育てることはできません。 TEAPやGTEC CBTとて,スピーキングセクションで高得点をとれる生徒を公教育を通じて育てることはきわめて困難と言わざるをえません。

2020年度に向けた英語の大学入試改革は,このような現実を直視することなく,楽天を筆頭とする財界やテスト業者と連携する先生方(実際のテスト開発や運営には深く関わっておられないのではないでしょうか)の主導で進められています。

また,外国語の教育や習得に関する背景知識のない文科省の行政官は,「少ない予算で4技能のテストが導入できればが何でも良し」という構えのようにさえ思われます。(私たちが開発しているスピーキングテストのことで何度か問い合わせがありましたが,失礼ながら,そのような印象を受けました。)

万一,外部(民間)テストの入試利用が本格化すれば(たとえば,国公立大学の一般入試などで利用されるようになれば),得をするのはテスト業者,および,英語教育に力を入れる私立の中学・高校,塾・予備校・英会話学校・ホームステイ企画会社などと,そこにお金を払う余裕のある家庭の子供たちです。

一方,一般的な中学・高校の教育で育てることのできない能力を大学入試で問えば,経済的に恵まれない家庭の子供たちが高学歴を得るチャンス(ひいては社会の流動性)が奪われることになりかねません。

一部のエリートを育てるために,全体が犠牲になる可能性はしばしば指摘されますが,今回の英語の大学入試改革がその傾向に拍車をかけることが危惧されます。

私は,入試へのスピーキングテスト導入を支持する側の者です。だからこそ,その準備をコツコツと進めてきました。そして今,その実績に基いて,「大学入試への英語スピーキングテスト導入は,教育の改善と併行して,段階的に行うべきだ」と声を上げたいと思います。

従来どおりなら,各大学は2017年度中に,2020年度の入試の概要を公表することになります。もし外部テストを利用するなら,自学のアドミッションポリシーや社会的な影響などを考えて,採用するテストやスコアの利用方法を慎重に検討しなければなりません。横並び志向で軽率な判断をすれば,「法科大学院の失敗」の二の舞いを演じることにもなりかねません。

そのためには,各大学の判断の材料となる情報が必要です。しかし,これまでのところ,文科省からそのような情報提供はありません。文科省内に設けられた「英語力評価及び入学者選抜における英語の資格・検定試験の活用促進に関する連絡協議会」に参加するテスト業者が,「適正かつ包括的な英語4技能試験の内容・レベル・活用事例等の情報提供を行う」ことを目標に,「英語4技能試験情報サイト」を運営していますが,このサイトには,先行的な導入事例やインタビューなど外部テストの利用をイメージで煽る情報ばかりで,各大学が主体的な判断をするための拠り所となるようなデータはほとんどありません。むしろ,このサイト自体が今回の大学入試改革が短絡的であることを象徴しているようにさえ思われます。

最近では,テスト業者やテスト業者の下で働く研究者の方々から,準備不足を不安視する声が聞こえてくるようになりました。スピーキングテストの運営は費用対効果がきわめて低く,だからこそTOEFLやTOEICでも,スピーキングセクションの導入が他の技能に比べて大幅に遅れました。

スピーキングテストの裏側は,他の技能のテストにも増して,運営の安定性や機密性,受験環境の公平性,評定基準の妥当性,採点の信頼性など,危うい要素で溢れています。これらの点において,日本の大学入試については,どこを最低ラインとして外部テストに求めるのか。これまでに,そのような議論は一切なされていません。50万人を超える受験者の受け皿になる(その結果,巨大な利権を得る)側の方が不安になるほど,ずさんな制度設計の下で,英語の大学入試改革が行われようとしているのです。

現状のままで2020年度に突き進んだのでは,ポジティブな波及効果よりネガティブな波及効果の方が大きいことも考えられます。上述のような社会に及ぼす負の波及効果だけではありません。教員がスピーキングの指導に慣れていなければ,安直なテスト対策として,発音指導や発話中の文法的誤りを減らす訓練などに力が入ってしまうことでしょう。それでは,生徒のスピーキング能力向上を望むことはできず,スピーキングテストの入試導入に寄せられる期待そのものが裏切られることになりかねません。

そのような可能性をまったく検証することなく,英語の大学入試の一大改革が行われようとしているのです。テストのポジティブな波及効果に安直な期待を寄せるばかりで,教育が追いついていないことの弊害には思慮が及んでいないのです。

今こそ,舵を切り替えるべき時ではないでしょうか。ここまで待ったのですから,たとえ,あと数年遅れるとしても,周到な検証や準備をしてから,中→高→大,定期テスト→入試と段階的にスピーキングテストの導入を進めるべきです。

また,大学の教職員は(特に英語教育に携わる者は),今こそ,入試を運営する主体として,その社会的な責任を認識し,2020年度に向けてそれぞれの大学の入試について真剣に考えるべきだと思います。自分の仕事の負担の増減や来るべき嵐を凌ぐことばかりを心配していると,日本の英語教育がとんでもない方向に向かってしまうかもしれません。