岩波ブックレット「検証 迷走する英語入試 —スピーキング導入と民間委託 —」

ブックレット表紙画像2018年6月5日,岩波ブックレット「検証 迷走する英語入試 —スピーキング導入と民間委託—」が出版されます。編者の南風原朝和先生(東京大学高大接続研究開発センター長,大学院教育学研究科教授)に加えて,宮本久也先生(東京都立八王子東高等学校長,前全国高等学校長協会会長),阿部公彦先生(東京大学文学部教授),荒井克弘先生(東北大学名誉教授,元大学入試センター副所長)が,今回の英語入試改革の欠陥をそれぞれの視点から指摘されます。私も寄稿させていただきました。以下は,担当させていただいた第3章の書き出し(「はじめに」)のつもりでしたが,スペースが足りず,最終稿では削除した部分です。受験生やその予備軍,また支える保護者や教員に知らされるべき改革の実情に焦点を絞りました。方向転換のきっかけとなりますように。


2020年度からセンター試験に代わり「大学入学共通テスト」が実施される。国立大学協会は最初の4年間,国立大学の一般入試の受験者全員に,大学入試センターが作る英語の試験に加えて,民間の英語試験を課すことを決めた。文部科学省は,2024年度から前者を廃止し,後者に全面移行する方針である。
その背景について,かつては文部科学省の官僚であり現在は同協会の常務理事を務める木谷雅人氏が,ベネッセ(利用される民間試験の一つであるGTECを運営する企業)[1]の情報サイトで,以下のように述べている[2]。「入試における認定試験の活用について十分な実績,経験のデータがない中,検証してデータをそろえていくうえでもまずは両方を課す必要があるという判断になった。」
検証が必要な試験なら受験料をとるべきではないし,入試に用いるべきではない。しかし,これが今回の英語入試改革の現実である。ずさんな手続きの末にできあがった制度は欠陥ばかりが目につき,入試制度の破綻につながることさえ危惧される。
ところが,実際に何が起こっているかは案外,知られていない。2017年12月~2018年1月に,朝日新聞とベネッセ教育総合研究所が,公立小・中学校の保護者を対象に行った調査では,センター試験が共通テストに変わることついて,「知っているが変更内容は知らない」人が44.4%,「変更されることを知らない」人が33.3%であった[3]
わかりにくいのは確かである。対象が英語であるうえ,CEFR(セファール)などという聞きなれない用語が使われる。テストというものへの漠然とした恐れや信頼もある。しかし,実情を知れば,新制度を商機と見る業界関係者以外,賛同する人はいないだろう。
本章では,異なる民間試験の成績を比べるために文科省が作った「各資格・検定試験とCEFRとの対照表」と,入試に利用する民間試験の選定に焦点を当てて,問題の核心を掘り下げる。

[1] 株式会社ベネッセコーポレーション
[2] http://between.shinken-ad.co.jp/hu/2018/04/kokudaikyo.html
[3] https://berd.benesse.jp/up_images/textarea/Hogosya_2018_06.pdf

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研究費(税金)を有効に使うためにも

2017年4月22日に日本言語テスト学会が発表した「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)における英語テストの扱いに対する提言」は,今回の英語大学入試改革の問題点を的確かつ網羅的に指摘するものであり,テストに関する知識の蓄積に裏づけられています。

http://jlta2016.sakura.ne.jp/wp-content/uploads/2017/04/JLTA_proposal2017_Jan_4.pdf

しかし,学会の英知はほとんど活かされることなく今日に至っています。

学会幹部の肩書きが学会員の承認なく文科省の委員会名簿(筆者の抗議のためか削除済)やテスト業者の宣伝に使われている学会もある中で,日本言語テスト学会の毅然とした姿勢には頭が下がります。しかし,学会として文科省や国大協に公開質問状を出す,会員が所属大学に働きかける,わかりやすい言葉で受験生や保護者に訴えかけるなど,もう一歩踏み込んで動いてくださると,提言が真の影響力を持つと思います。

また,文科省も(教員や研究者のいないところで決めた)既定路線を推し進めるために,(要所要所では批判的なコメントもしている)推進派の研究者を利用するたけでなく,慎重論を唱える研究者の意見も聞いておれば,今回のようなことにはならず,より良い解決策が見つかっていたかもしれません。

国立大学協会も同じです。私は昨年11月の総会の直前に山極会長に,「専門の学会や研究者の知識・経験を結集して,国大協自らがwell-informed decision を」ということを直訴する手紙を送りました。しかし,投函した翌朝には,国大協の事務局から「教員個人からの問い合わせには応じられない」との連絡がありました。返事をくださっただけで誠実とも言えますが,山極先生に勝手な期待を寄せていただけに残念でした。

もちろん,所属大学の学長にも働きかけました。結果としてはガス抜きになってしまったかもしれませんが,学長は総会の席で同じ趣旨の発言をしてくださりました。学長には本年1月末の国大協総会の前にも同じことをお願いしましたが,「新共通テストを使わないという覚悟がなければ,地方の小さな大学がここまで来たものに反対はできない」とおっしゃりました。その総会で,東大の五神総長が「拙速な案を国大協から出すべきではない」と釘を刺さされた際に,他の学長から「ちゃぶ台返し」との声が上がったという新聞報道を読み,納得しました。

税金(運営費交付金,科研費等)を財源とする研究費が国民のために有効に使われているかが議論されています。今回の大学入試改革こそ,研究者や学会が蓄積してきた知識・情報を直接的に国民のために活かすチャンスです。国(文科省),国大協,各大学と,学会や研究者が協働してbetter-informed decisionをしなければならないと思います。Nothing is too late!

何のための「要請」?

※2017.6.7付,国大協による意見書「『高大接続改革の進捗状況について』に対する意見」(http://www.janu.jp/news/files/20170614-wnew-teigen.pdf)より

各大学の入学者選抜において、認定試験の結果を具体的にどのように活用する かを検討するためには、次の点について、早急に更なる詳細が示されることを求める
○ 認定の基準及びその方法
○ 学習指導要領との整合性
○ 受験機会の公平性担保、受験生の経済的負担軽減等の具体的方法
○ 異なる認定試験の結果を公平に評価するための対照の方法

※2017.11.10付,「認定試験を一般選抜 の全受験生に課す」と決めた国大協総会後に発表された会長談話(http://www.janu.jp/news/files/20171110-wnew-nyushi2.pdf)より

残念ながら6月に指摘した諸課題については未だ十分な詳細が示されているとは言えない。

しかしながら、改革の実施までに残された期間は短く、各大学及び受験生の準備や心構えを考慮すると、基本方針については早急に示す必要があることから、このたび策定・公表したものである。

文部科学省においては、上述の国立大学協会が指摘した諸課題について早急に検討を行い、可及的速やかに詳細を明らかにするよう要請するものである。

なお、国立大学協会としては、その内容を精査した上で、英語の認定試験及び 記述式試験の具体的な活用方法について、本年度中を目途に、国立大学共通のガイドラインを作成することを予定している。

※2018.2.19付,国大協入試委員長コメント「英語民間試験の活用に関する国立大学協会の検討状況についての一部報道について」(http://www.janu.jp/news/20180219-wnew-comment.pdf)より

本年度中を目途に「英語認定試験及び大学入学共通テストの記述式問題の活用に関するガイドライン」を作成すべく検討していることは事実である。

当協会としては、先に述べた「ガイドライン」が所要の審議を経て決定された 後、速やかに公表し当協会の考え方を説明したいと考えている。

[いずれも強調は筆者]
——–

国大協は,文科省が明らかにすべき「詳細」の内容を精査した上でガイドラインを作成するのではなかったのか。昨年6月の時点で挙げられた問題は解決するどころか,深刻さがより明確になってきている。しかし,文科省は国大協の要請に応えていない。応えてもいないのに,「ガイドラインを作成すべく検討している」のはなぜなのか。その理由こそ,国大協入試委員長が説明すべきである。対応に期待しないなら,何のための「要請」なのかを教えていただきたい。

国大協は,ガイドラインの作成には「認定の基準及びその方法、学習指導要領との整合性、受験機会の公平性担保、受験生の経済的負担軽減等の具体的方法、異なる認定試験の結果を公平に評価するための対照の方法」についての詳細な情報が必要であることを認識している。また,その条件が整っていないこともわかっている。ならば,ガイドラインを作成し,公表するなどということはありえないはずだ。

大学という最もwell-informedであるべき組織を束ねる団体として,受験生や国民に恥ずかしくない判断をしていただきたい。

誰の得にもならない大学入試改革

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東京大学高大接続研究開発センター主催シンポジウム「大学入学者選抜における英語試験のあり方をめぐって」の講演資料が公開された。

http://www.u-tokyo.ac.jp/ja/adm/koudai/sympo2018.02.10.html

この講演において,私は大規模標準化テストの開発・運営の実情を少しだけ知る者として,「日本の大学入試」と「複数の民間試験利用」とはきわめて相性が悪いことを例証した。そのしわ寄せ(公正性・公平性の弛み)は水面下で受験者や保護者,教員に押しつけられるか,表面化して国,大学,テスト業者がそれぞれに大打撃を被るかのどちらかだろう。

テスト業者を責めるつもりは毛頭ない。上記シンポジウムの討論において,文科省高等教育局大学振興課大学入試室長の山田泰造氏は,制度の危うさを指摘する声に答えて,「問題のあったテスト業者は大学入試英語成績提供システムから外す」と明言した。

今,テスト業者は,正確な受験者数を読めないままで,大きな投資を迫られている。その一方で,受験料を抑えること(外から分からないように,テストの性能や採点の質を下げること)も求められている。そして,ひとたび問題が起これば,文科省に切り捨てられるのだ。

受験者は,50万人 X 2回の100万人ではない。成績提供システムに登録できるのが2回というだけで,経済的余裕のある者は何度でも受験できる。また,誰でも受けられるテストが大学入試に使われるのだから,低年齢層からの受験者も増大するだろう。

大学入試に使われるテストがこれだけの規模で行われるようになれば,作問する人,採点する人,試験運用にかかわる人(つまり,使い回しされる問題や採点基準等を知っている人)が,世の中にあふれることになる。今でも,英検等の面接者が其処此処にいることは暗黙の了解だが,数が増えれば増えるほど,人の採用や管理は難しくなる。

誓約書の効力には限界があり,不正や問題漏洩は末端で起きる。英国におけるTOEFLの不正もETSの下請けで起こった。テスト業者には,公正・公平の極みとも言える日本の大学入試制度に組み込まれて本当に大丈夫かを,テストの開発・運営の実態に照らして慎重に考えていただきたい。

制度維持のための透明性担保は国の仕事である。しかし,文科省は大学に圧力をかけて先行事例を増やすことの方に熱心だ。賢いテスト業者なら,「能力診断テスト」のままでいた方が安全と判断するところだろう。

大学入試英語成績提供システムに参加しなければ淘汰される。参加しても淘汰される。今回の大学入試改革は,テスト業者にとっても八方塞がりだ。

新たな制度をつくる際に果たすべき責任など,眼中になくなっているのだろう。それでも,国,大学,テスト業者,それぞれのプレーヤーがまともに保身を考えれば,こんなことにはならないはずだ。愚策で受験生,保護者,教員を振り回すのはやめていただきたい。

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公共事業の難しさ

年末に,普天間と辺野古に行ってきた。関心を持ち続けていたいという思いからだが,公共事業の難しさは今回の入試改革にも通じるものがあると感じた。特に時間のかかる事業は,自らが結果責任を負わないので,政治家(鳩山さんも含む)も役人も任期中の手柄や自己実現・承認を優先して唐突に動いてしまうのだろう。

辺野古はもっと難しいだろうが,入試改革についても,ここまで来てしまった事業を止めることから利益を得る政治家や役人はいないだろうから,彼らを動かすことは難しい。

一方,今回の件で,(教育改善のための大学入試改革なので,当事者感が薄れがちではあるが,それでも),万一誤った入学者選抜をすると,その責任を負うのは各大学なので,国立大学協会がギリギリのところで慎重さを取り戻すことは,まだ期待できる。

昨年6月14日付の意見書(http://www.janu.jp/news/files/20170614-wnew-teigen.pdf)や11月10日の総会後に発表された会長談話(http://www.janu.jp/news/files/20171110-wnew-nyushi2.pdf)を読めば,国大協が問題の在り処を明確に把握していることは明らかである。「意見書」で文科省に求めた情報提供がないにもかかわらず,「認定試験を一般選抜 の全受験生に課す」と総会で決定したのは,運営費交付金等に絡めて文科省に締めつけられることを恐れてのことであろう。しかし,文科省に対する情報提供の要請は「会長談話(以下抜粋)」に引き継がれている。

「さらなる詳細が示されるべき課題とは、英語の認定試験については、認定の基準及びその方法、学習指導要領との整合性、受験機会の公平性担保、受験生の経済的負担軽減等の具体的方法、異なる認定試験の結果を公平に評価するための対照の方法などであり… 」

「残念ながら6月に指摘した諸課題については未だ十分な詳細が示されているとは言えない。

しかしながら、改革の実施までに残された期間は短く、各大学及び受験生の準備や心構えを考慮すると、基本方針については早急に示す必要があることから、このたび策定・公表したものである。

文部科学省においては、上述の国立大学協会が指摘した諸課題について早急に検討を行い、可及的速やかに詳細を明らかにするよう要請するものである。

なお、国立大学協会としては、その内容を精査した上で、英語の認定試験及び 記述式試験の具体的な活用方法について、本年度中を目途に、国立大学共通のガイドラインを作成することを予定している。」

ここで,国大協が妥協すれば,結局は,国立競技場の時のように,おかしなことが起こり始めてからしか,抜本的な見直しや修正がなされないことになる。2020年度を前に,そういうことが起こらないようにするための検証がほとんど行われていないだけに,国大協の「要請」が再び蔑ろにされることのないよう,文科省にも国大協自体にも望みたい。

「大学入試英語成績提供システム」への参加申込が7団体24種のテストからあったそうだが,その複雑さに制度の危うさが隠れてしまう感がある。

http://www.dnc.ac.jp/albums/abm.php?f=abm00011313.pdf&n=参考資料2_「大学入試英語成績提供システム」の活用イメージ.pdf

もちろん,それを意図して作られたわけではないだろうが,テストの運営が混乱・破綻すれば業者の落ち度になり,選抜方法に起因する問題は各大学のせいになるようにできている。妥当性・信頼性・機密性などテストの根幹にかかわる問題に加えて,個人情報の扱いも危ういし,システム参加要件の審査を申請団体の自己申告に基いて行うなんて茶番としか言えない。

ここまで来たら,どんな馬鹿げたことも起こりうることを前提に対応を考えるしかない。年間の延べ受験者数さえ予想できない状況の中,不必要な時限を切って,必要な検証を怠ったまま,民間試験導入事業がデマゴーグの口車に乗せられて,前へ前へと推し進められている。「少々問題があっても何もしないよりマシ」「英語教育改革の最後の砦」などという言葉を,日頃は信頼を寄せる同業者から聞くようになると,これは入試改革のインパール作戦かと問いたくなる。

 

 

「入試へのスピーキングテスト導入」賛成派としての反対

外国語教育の目的は多様だが,「使えるようになること」だけについて言うなら,対象言語を用いて意味をやり取りすること(言語を本来の用途で使うこと)を通してしか,その能力を育むことはできない。習得を推し進めるのは主にインプット(読んだり,聴いたりすること)だが,アウトプットも重要な役割を果たす。言語形式(文法や語彙等)を明示的に教えることにもそれなり効果はあるが,十分なインプット・アウトプットがあることが前提となる。

このような第2言語習得のメカニズムの大筋(あくまでも大筋ではあるが)は,1960年代後半から今日に至るまでの第2言語習得研究によってほぼ証明されたと言ってよい。これらの研究は,主に口頭のコミュニケーション能力の習得を対象とするものだが,読み書きの能力が口頭のコミュニケーション能力と根本的に異なるメカニズムで習得されるというような証拠はない。

今でも日本では,「読み書きさえやっておけば,必要になった時に話せるようになる」などと,逸話めいた根拠に基づくガラパゴス的な主張を耳にすることがあるが,日本語話者だけに独特の習得メカニズムがあるとは考えられない。

また,明示的に習うことから得た言語形式に関する知識の一部を読み書きに使えるとしても,その知識がそうやすやすと即時的な口頭のコミュニケーションに使えるように自動化するなら,英語教員の英語を使う力が足りないというような問題は起きないはずである。

その他にも,「自分は明示的な文法説明(理解)がないと外国語を学ぶ気にならない」等,(子供はもちろん,大人にも逆の傾向の人はいるので)individual differencesとして扱われるべき要因を,普遍的な習得メカニズムと混同して論じる向きもある。

さらに,日本では英語を使う機会が少ないことや,授業時間が限られていることなどを根拠に「読み書き重視」を主張する研究者もいるが,どのような学習環境であろうと,もし習得(使えるようになること)を目標とするのなら,動かしがたい習得メカニズムを前提に,そのプロセスを促していくしかない。

言いかえれば,外国語の教育や教師の役割は,狭義の教える(知識を授ける)ことではなく,習得メカニズムを促す環境を整えることである。これにはマクロ・ミクロレベルでいろいろな方法があるが,根本的には,従来の「教える」「わからせる」といった発想をやめて,「使う」(特に「読んで」「聞く」)ことや「育む」ことに重点をシフトする必要がある。

最もミクロレベルの例を挙げるとすれば:

(1) Tom (go) to Japan last year to see his uncle.
[“go”を適切な形に]

などと,文法や語彙を陳列するために言語を用いるのをやめて,

(2) Tom went to Japan last year to see his uncle.
[When did Tom go to Japan? What did he do there?]

と問えば,意味伝達のために言語を使うことになる。

さらに,
(3) Have you been abroad? When? What did you do there?

と学習者自身について問えば,より深い意味へのengagementが生まれるかもしれない。

このように,文法(上の場合は,現在完了や過去形など)や語彙を意味伝達のために用いることが最も重要であり,その過程で和訳するか否か,辞書を用いるか否か,英語で教えるか否かなどは,副次的な問題にすぎない。

「英語の授業は英語で」という方針は,同様の指導理念に基づくものと思われるが,あまりにも突飛で教育現場の現実を踏まえていない。そのため,教室では,(2)(3)のような言語運用が起こらない(習得に資する認知プロセスが生じない)「口頭のコミュニケーション活動」に貴重な授業時間が浪費されるようになってしまった。その一方で,根本的には,上記(1)的な言語へのアプローチに取り憑かれた状況はまったく変わっていない。

このようなどっちつがずの状況が,上述のような上滑りの不毛な論争を呼び起こす結果にもなった。

「それほどスピーキングが重要なら,入試に採用されるか否かにかかわらず教えらているはずだが,なぜそうではないのか?」と問われたことがある。そもそも,スピーキング(広く言えば,言語を使う能力)は,外から教えられるものではない。さらに,今の日本の教育現場には,(重要とわかっていても)使う能力を育む力が備わってはいない。

すなわち,「大学入試にスピーキングがないから,スピーキング能力が育たない」などというのは,100%の濡れ衣である。逆に言えば,入試にスピーキングを導入したところで,教育現場における言語へのアプローチが根本的に変わらない限り,生徒たちの英語運用能力が画期的に伸びることは期待できない。

そういう意味で,ここ10年あまりの間に,小池生夫先生や吉田研作先生が文科省に入り込んで,勢力的に取り組まれても達成できなかったことを,もしかしたら達成できるかもしれない最後の切り札が「入試へのスピーキングテスト導入」ということなのだろう。

つまり,今回の入試改革の目的は,公正・公平に入学者選抜を行うことではなく,入試を変えることで教育を変えることである。教育の現場で育むことのできない能力を入試で問うことによって教育を変えるという本末転倒の荒業(禁じ手)が今まさに使われようとしているのだ。

「民間試験のスコア対照表が愚の極みである」とか,「CEFRのレベル分けでは入学者選抜ができない」といったテストの根幹にかかわる指摘にも,文科省を含む導入推進派がびくともしないのはそのせいであろう。

ここに来て,推進派に慎重さを促すことができるのは,テストの運営過程できわめて大きな破綻が起こる可能性があるという事実を突きつけることだけかもしれない。50万人以上の受験者のうちの100人程度がリスニングの再開テストを受けたことに毎年大騒ぎする(好ましいとは思われない)土壌を利用することになるが,SGU予算や科研費の配分を受けて,実際にスピーキングテストの開発・運営をしてきた者の役割をその面で果たしていきたい。

今回の件,スピーキングテストの入試導入自体に反対する方と,私のようにできる限りの慎重さを求めながらも導入には賛成である者の違いは,やはり,英語教育に関する根本的な考え方の違いによるもののように思われる。

私は,タオルと加計学園で知名度急上昇中の愛媛県今治市の出身だが,しまなみ街道(尾道とつながる高速道)に外国人のサイクリストが増えて,駅前の自転車屋の店主やスーパー銭湯の店員が英語ができなくて困っていると聞く。先日はテレビで,築地のマグロの仲買人がイタリアに売り込みに行ったというニュースを見たが,日本側の通訳がイタリア人の問屋と英語で交渉していた。

上述のような意味のやり取りを重視した指導法の下で高校まで英語を習っても,そういう人たちがあまり困らないようになる程度にしか成果は望めないかもしれない。しかし,もし日本の学習環境の限界なら,それに甘んじるしかないし,むしろ,そういう能力の育成こそが,公教育が担うべき役割であろう。極言するなら,日本経済が破綻して労働者として海外に渡る時にも,戦争が起こって難民として国外に逃れる際にも,ものを言うのは英語による基本的なコミュニケーション能力である。そういう力こそ公教育が保証すべきものであろう。

最近は高卒の社員が海外の工場等に派遣されるケースも増えてきたが,たとえば,高等教育に必要な読み書きの力や「グローバル人材に求められる発信力」といったローカルなコンテクストで必要とされる能力は,このような基本の上に積み上げられるべきものである。

ここ数年,勤務大学や地域の高校で実際にスピーキングテストを開発・運営してきたが,テストにそれなりの威力があることは否定できない。生徒・学生の英語運用能力が伸びてきたことを数値で示すこともできる。また,教員や生徒・学生が少しずつ変わってきているという手応えもある。しかし,だからといって,公正性や公平性を欠く入試がまかり通ってよいはずはない。建設的な提案をしていきたい。